救うべき世界は、すぐそばにある
夕食の時間だというのに、食卓は静かだった。
誰も怒っているわけではない。
テレビの音だけが流れ、それぞれがスマートフォンに目を落としている。
「おかえり。」
その一言さえ交わさない日もある。
家族は毎日顔を合わせているのに、心は少しずつ離れていく。そんな光景は、どこの家庭にもあるのではないだろうか。
そんな何気ない日常に触れるたび、私はマザーテレサのある言葉を思い出す。
来日した際、記者からこんな質問を受けたという。
「世界平和のために、私たちは何をすればいいですか。」
彼女は少しも迷わず答えた。
「こんなところにいないで、早く家に帰って、家族を抱きしめなさい。」
世界平和という壮大な問いに対して、返ってきたのは、あまりにも身近な答えだった。
この言葉を初めて知ったとき、私は少し拍子抜けした。もっと崇高な教えや、大きな理想が語られると思っていたからだ。
けれども年月がたつほど、この言葉の重みは少しずつ増してきた。
世界を変えることは難しい。
しかし、一番近くにいる人を大切にすることも、同じくらい難しい。
聖書にある「隣人を愛しなさい」という教えも、世界中の誰かを愛しなさいという意味ではないらしい。「隣人」とは、今日、目の前にいる一人のことなのだ。
だからこそ難しい。
見知らぬ人には優しくできても、毎日顔を合わせる家族や職場の人には、つい言葉がきつくなる。
甘えてしまう。
期待してしまう。
傷つけ、傷つけられる。
それが、人間というものなのだろう。
だから私は、ときどきマザーテレサの言葉を「きれい事」のように感じてしまうことがある。
現実には、人間関係に悩み、苦しみ、どう接すればいいのかわからない人がたくさんいる。
私も、その一人だ。
ところが後になって知った。
マザーテレサ自身も、「身近な人を愛することが一番難しい」と、たびたび語っていたという。
聖人と呼ばれた人でさえ、その難しさを知っていたのである。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
彼女が言う「愛」とは、「好き」という感情ではない。相手の存在を認めること。傷つけないように接しようと努めること。その意思と行動の積み重ねなのだ。
だから、無理に好きにならなくてもいい。
許せない日があってもいい。
せめて挨拶をする。
必要な言葉を丁寧に交わす。
それだけでも、人は誰かを大切にしていることになるのではないだろうか。
マザーテレサは、こんな言葉も残している。
「自分の中に平和がなければ、他人に平和を与えることはできません。」
誰かを思いやる前に、自分の心がすり減っていては続かない。だから、自分をいたわることもまた、愛の一つなのだと思う。
私は聖人にはなれない。
それでも、目の前にいる一人を大切にすることだけは忘れたくない。
世界を救うことはできなくても、「おかえり」と言える今日がある。
もしかすると、世界平和とは、そんな何気ない一言から静かに始まるものなのかもしれない。
今日は、この曲が聴きたくなりました
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