上野の森で舌鼓
上野公園の一角に、ひっそりと佇む老舗日本料理店[韻松亭]があります。緑深い森に抱かれるように建つ数寄屋造りの建物で、丁寧に仕立てられた豆菜料理や湯葉会席を味わうことができます。
上野公園のある場所は、もともと徳川幕府の菩提寺・寛永寺の境内でした。明治維新の戦火によって焼け野原となったその広大な土地を前に、新政府は活用方法に頭を悩ませていたといいます。そんな時、オランダ人軍医ボードワン博士が「市民のための公園」として整備することを提言し、日本初の公園のひとつとして誕生したのが上野公園でした。
実際に歩いてみると分かりますが、上野公園は単なる憩いの場ではありません。博物館、美術館、動物園、図書館などが集まり、文化と芸術が息づく場所として再生されました。都会の中心にありながら、豊かな緑に囲まれ、どこか時間の流れまで穏やかに感じられる空間です。
森の中をゆっくり歩いていると、どこからともなく楽器の音色が聞こえてくることがあります。一歩足を踏み入れるだけで、そこには日常とは異なる静かな世界が広がり、訪れる人をやさしく迎え入れてくれます。桜の季節はもちろん美しいのですが、上野公園は四季それぞれに異なる表情を見せてくれる場所でもあります。2016年には、国立西洋美術館を含むル・コルビュジエの建築作品群が世界文化遺産に登録され、その価値を改めて世界に知らしめました。
明治政府は、公園を訪れる市民のために飲食施設も必要だと考え、いくつかの料亭を設けました。その一つが韻松亭です。私がこの店を知ったのは、友人が勤めていたことがきっかけでした。
韻松亭では、まず履き物を脱いで店内へ上がります。その瞬間から、特別な時間が始まる予感に包まれます。中でも私が好きなのはカウンター席です。ガラス越しに庭を眺めながら座っていると、この空間が細部まで丁寧に計算されていることに気づかされます。
柱や壁の色、柔らかな照明、竹を用いた竿縁天井、そしてテーブルの高さや奥行き――。その絶妙な均衡に感動し、以前思わず寸法を測りたくなったほどでした。もし私が建築で再現したい空間を一つ挙げるなら、韻松亭の入口とカウンター席の静かな美しさかもしれません。
私は季節を変えて何度もこの店を訪れていますが、同じ湯葉会席を頼んでも、その時々で器や盛り付けが異なり、訪れるたびに新しい趣を感じさせてくれます。韻松亭では、滋賀県産の国産大豆「みずくぐり」を使い、毎朝その日の分だけを職人が手作りしているそうです。そうした手間の積み重ねが、料理のやさしい味わいにつながっているのでしょう。
豆菜料理は豆に始まり、豆に終わるといいます。湯葉、呉汁、豆乳、おから、おから茶と余すことなく豆を楽しめる手作りの料理を中心に季節の物を取り入れた料理は、他では味わうことのできないものです。
人気店ゆえ、なかなか予約が取れないのが悩ましいところですが、それでもまた訪れたくなる魅力があります。趣ある木造建築は明治時代から受け継がれ、かつては日本画家・横山大観がオーナーを務めていたことでも知られています。
私が本当に惹かれる場所とは、静かな自然の中にあり、美しい空間と心地よいもてなし、そして美味しい料理が揃っているところなのだと思います。そうした店は、今では少しずつ貴重な存在になってきました。
上野の森で、ル・コルビュジエの建築や横山大観の美意識に思いを馳せながら、非日常に身を委ねる。そんな時間を、たまには味わってみるのも良いのではないでしょうか。
上野の森の中を歩きながら
この曲を聴いてみましょう
Concerning Hobbits (From “The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring “)
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