由布院、一期一会の旅
今から二十年以上前のこと。東京への出張を少し早めに切り上げ、私は一人で飛行機に乗り福岡空港へ向かった。
空港から博多駅へ移動し、由布院行きの切符を買おうと窓口に並ぶと、当時は美術館の入館券が付いたお得な乗車券が販売されていた。駅員さんに勧められるまま、私は「ゆふいんの森Ⅰ世(キハ71系)」の切符を購入した。
その列車は、由布院というアートの街への序章にふさわしい特別な空間だった。車内にはロビースペースや壁面を利用した絵画やモダンアートが展示され、まるで「動く美術館」のような趣があったのである。
残念ながら、由布院美術館は2012年3月31日に閉館し、この企画もまた歴史の幕を閉じた。しかし、あの列車で胸を躍らせながら由布院へ向かった記憶は、今も鮮やかに残っている。
私が由布院を訪れてみたいと思ったのは、当時、雑誌で何度も紹介されていた「湯布院御三家」の存在だった。
「亀の井別荘」「由布院玉の湯」「山荘 無量塔(むらた)」。
これらの宿は単なる高級旅館ではない。由布院を自然豊かな癒やしの温泉地へと育て上げた立役者として、多くの人々に愛され続けていた。
由布院駅に降り立った瞬間のことを、私は今でもよく覚えている。
どこからともなく漂ってきたのは、藁を焼くような懐かしい香りだった。盆地特有の、山々から吹き下ろす澄んだ空気。その冷たく清らかな風の中に、どこか温もりを感じさせる藁の香りが混ざり合う。
私は何度も深呼吸をした。
後になって調べると、それは秋から冬にかけて行われる稲わら焼きか、あるいは早春の風物詩である野焼きの名残だったのかもしれない。
憧れだった「山荘 無量塔」では、なだらかな坂を上った先で少し贅沢なランチをいただいた。
古民家を移築した趣ある空間で食事を楽しみ、食後の珈琲はラウンジバーへ移動して味わった。静かに流れる時間と、クラシックな空間の心地よさは今でも忘れられない。
そのとき、マネージャーの方が御三家のオーナーたちの熱い思いや、由布院のまちづくりにかけた情熱について語ってくださった。宿の魅力だけでなく、その背景にある人々の志に触れたことで、私はますますこの土地に惹かれていった。
実は、この旅は急に思い立ったものだったため、宿泊先をまだ決めていなかった。
あちこちに問い合わせてみたが、当時は女性の一人旅を快く受け入れてくれる宿が今ほど多くなく、宿探しには思いのほか苦労した。
そんな中、由布院美術館の方が一人でも安心して泊まれる宿を紹介してくださり、私はようやく胸をなで下ろした。
その後、乗車券に付いていた入館券を手に、美術館巡りを楽しんだ。ヨーロッパの美しいステンドグラスが展示されている館もあり、どこも見応えがあった。
そして、その日の出会いの中で、最も心に残る出来事が起こる。
由布院美術館で、一枚の作品に目を奪われたのだ。
フェルトで表現されたバックギャモンの図柄。その不思議な魅力に惹かれ、私は思わず尋ねた。
「この作品は譲っていただけるのでしょうか?」
すると館の方が微笑みながら、
「甥の作品なので、聞いてみましょう」
と言って電話をかけてくださった。
驚いたことに、作品を譲っていただけることになった。
こうして私は、その作品を自宅へ連れて帰ることになったのである。
作者は静岡に住む若いアーティストだった。
一枚の作品との出会いをきっかけに、私はその後も彼の個展へ足を運ぶようになり、いつしか熱心なファンになっていた。
旅先で出会った一枚のアートが、その後何十年にもわたるご縁へとつながったのである。
亀の井別荘では珈琲をいただき、お土産を買った。
そして最後に、もう一つの憧れだった由布院玉の湯を訪ねてみることにした。
ところが、歩いているうちに知らず知らずのうちに敷地内へ入ってしまったらしい。
「申し訳ありません。ここから先は当宿の敷地になりますので、ご遠慮ください。」
そう声を掛けられた私は、慌てて謝りながら言った。
「失礼しました。実は、この宿に憧れて岩手から一人で来ました。次の旅のための取材旅行なのです。もしパンフレットがありましたらいただけませんか。」
すると、それまで黙々と庭の手入れをされていた男性が顔を上げた。
もしかすると当時の社長だったのかもしれない。あるいは、この宿を心から愛するベテランの職人さんだったのかもしれない。
その方は穏やかに微笑み、
「どうぞ、ご案内いたしましょう」
と言うと、宿の半被を羽織り、敷地内を丁寧に案内してくださった。
私は今でも時折、そのときのことを思い出す。
損得ではない。宣伝でもない。
ただ、目の前に現れた旅人との出会いを大切にする。
そんな「一期一会」の心こそが、由布院玉の湯が長年にわたり多くの人々から愛され続けている理由なのではないだろうか。
由布院の旅で出会ったのは、温泉やアートだけではなかった。
人の温かさだった。
そして、その温かさこそが、私にとって由布院という土地の何よりの魅力なのである。
由布院の旅を思い出しながら…
I Don’t Care
Official Artist Channel


