Essays & Music

⭐︎Felicia Please

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義経は、北へ

岩手県宮古市に、黒森神社という古い神社があります。

ここには、なんとも心を惹きつけられる義経伝説が残っています。

伝説によれば、源義経一行は黒森山に三年三カ月もの間、身を潜めて修行を重ね、般若経六百巻を写経して奉納したというのです。

さらに近くの横山八幡宮には、義経に従ってきた家臣・鈴木三郎重家が、老齢のため旅を断念し、この地に残って神主になったという伝説まであります。

私はこの話を知ったとき、胸が高鳴りました。

歴史上の通説では、義経は平泉の高館で妻子とともに最期を迎えたことになっています。

ところが、その「死」を覆すように、岩手から北へ、北へと続いていく「義経北行伝説」が残されているのです。しかも、それは一つの物語だけではありません。神社があり、地名があり、伝承があり、義経一行が立ち寄ったという場所が、まるで一本の道のようにつながっている。

まるで、八百年以上の時を越えて続く、壮大なロードムービーのようです。

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義経といえば、私がもう一つ思い出すのは、幼い牛若丸を含む三人の子どもを連れて、雪の中を逃げる常盤御前の姿です。

1159年、平治の乱で夫・源義朝が敗れて亡くなると、常盤御前は今若、乙若、そして牛若丸を連れて逃亡します。

やがて母が捕らえられたことを知った常盤は、自分が逃げ続ければ母や子どもたちに危害が及ぶと悟り、自ら清盛のもとへ出頭したと伝えられています。

そして、常盤の美しさと母としての情愛に心を動かされた清盛が、三人の子どもたちを助命した――。これは、後世の人々によって語り継がれてきた美しい物語です。

もちろん、ここは史実として断定することはできません。

『平治物語』や『義経記』にも異なる描写があり、常盤と清盛の関係や、子どもたちの助命との因果関係も一様ではないのです。

だから私は、この話を「史実」としてではなく、長い年月をかけて人々が紡いできた「物語」として味わいたいと思っています。

一人の母親の命がけの決断によって牛若丸は生き延び、やがて源義経となり、歴史に名を残す武将へと成長していく。そう考えると、歴史というものは、なんと不思議なのでしょう。

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そして義経には、さらに、その「死」を覆すもう一つの物語があります。

平泉で最期を迎えたのは、実は義経本人ではなく、身代わりとなった家臣だった。

義経は生き延び、北へ向かった――。
そんな伝説です。もちろん、史実として確認されたものではありません。

けれど岩手には、この伝説を裏付けるかのような場所が、いくつも残されています。

遠野には中村半官堂や風呂屋。
宮古には黒森神社や横山八幡宮。
岩泉には、義経の遺児を祀ったと伝えられる加茂神社。
さらに北へ向かえば、田野畑村の羅賀の断崖へと続いていきます。

岩手の深い山々と三陸の海を舞台に、義経一行の足跡が、まるで一本の道のようにつながっているのです。

その道を辿っていくと、私はふと思います。
なぜ、人々は「義経は死んでいない」という物語を作ったのでしょう。

それほどまでに、義経が愛されていたからではないでしょうか。

兄・頼朝に追われ、奥州へ逃れ、最後には悲劇的な最期を迎えた英雄。あまりにも若く、あまりにも美しく、そしてあまりにも惜しまれる人生でした。

だからこそ、人々は願ったのかもしれません。

――義経には、まだ生きていてほしい。
――もっと遠くへ逃げて、自由に生きてほしい。

その願いが、岩手の山や海に、一つ、また一つと伝説を刻んでいったのではないでしょうか。

私も、牛若丸の頃からの義経ファンの一人です。だから私は、史実ではないと分かっていても、ほんの少しだけ、この伝説を信じてみたいと思うのです。

義経は、平泉では死ななかった。
北へ、北へと旅を続けた。
岩手の深い山々を越え、三陸の海を眺めながら、さらに北へ――。

義経は、北へ。

岩手に残されたその道は、もしかすると歴史の道ではなく、人々の「生きていてほしい」という願いがつくった道なのかもしれません。

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物語の続きを思い浮かべながら…

Felicia Please

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