消せない一枚の写真
私の携帯電話の写真の中に、もう何年も消さずに残してある一枚があります。新聞を撮影しただけの、何の変哲もない写真です。けれど、その文章だけは、なぜかずっと心に引っかかっていました。
文章は、こんな一文から始まっていました。
「壇一雄は、この蟹田行きを契機に、劇団員の若い女性ともうひとつの文学的な青春を生き直すことになる。」
誰が書いたものなのだろう。そう思いながら続きを読むと、さらに心を掴まれました。
「作家には、たとえそれが不倫であれ、誰かに惹かれているという心の華やぎが、精神を若返らせ、作品に艶を与えることがある。そして、それは、単に作家だけのことでもないような気がする。」
私は、その文章に少し驚きました。なんて正直なのだろう、と。
不倫という言葉には、どうしても後ろ暗さがつきまといます。人は普通、それを美しくは語りません。しかし、この文章には、道徳的な言い訳も、もっともらしい理屈もありません。ただ、人を好きになるということが、人間の心を華やがせる――その事実だけを、率直に書いているのです。
確かに、未婚であれ既婚であれ、誰かに惹かれる時、人の心は少し若返るのかもしれません。何気ない景色が明るく見えたり、言葉が急に瑞々しく感じられたりする。作家であれば、その揺らぎが作品に艶を与えるというのも、どこか理解できる気がしました。
さらに文章は続きます。
「かりにその結果、家庭が劫火に焼かれることになろうと、心の華やぎは生きていることの確かな証しであるかもしれないからだ。」
ここまで来ると、もう開き直りにも見えます。家庭が壊れることを承知の上で、それでもなお、人を好きになる気持ちは“生きている証し”なのだと言い切っているのです。
もちろん、こんな考え方には反発もあるでしょう。不道徳だ、と眉をひそめる人もいるに違いありません。けれど、その文章を書いた人も、それは分かっていたのでしょう。最後には、こんなふうに結ばれていました。
「なんて、こんなことを書くと、やっぱりどこからか〈不道徳な!〉というようなお叱りを受けることになるのかもしれないけれど。」
そして、写真はそこで終わっています。
たったそれだけの短い文章なのに、私はなぜか消すことができませんでした。
もしこれが小説の一節だとしたら、作家というものは、自分の心の奥底を曝け出して書く人たちなのだと思います。もちろん小説には創作があります。しかし、現実の痛みや欲望、自分自身の矛盾を通り抜けていない言葉は、どこか薄い。人を本当に惹きつける文章には、書き手自身の体温のようなものが滲んでいる気がします。
私は最近になって、「壇一雄」という名前を改めて調べてみました。壇一雄は『火宅の人』を書いた作家で、自身の人生を色濃く映した私小説で知られています。家庭を持ちながらも、恋愛や放浪に生きた人でした。
若き日の壇一雄は、自由奔放で魅力的な文学青年だったのでしょう。しかし、そのそばで家庭を守る者にとっては、決して穏やかな人生ではなかったはずです。愛されることと、振り回されることは、時に同じ意味になってしまうからです。
それでも、私はあの一文に惹かれてしまう。
「もうひとつの文学的な青春を生き直すことになる。」
その言葉には、人生が一度きりでは終わらないような響きがあります。人は年齢を重ねても、誰かに出会うことで、もう一度青春のような時間を生きてしまうことがあるのかもしれません。
もちろん、その先には痛みもあるでしょう。失うものもあるでしょう。それでも、人の心は理屈だけでは動きません。
もし、自分自身に本当に好きな人ができた時、私はどうするのだろう。
家庭や日常を守りながら、静かにやり過ごすのか。それとも、壇一雄のように、燃えるような感情へ飛び込んでしまうのか。
そんなことを考えながら、私は今も、その古い写真を消せずにいます。
消せない一枚の写真を見ていたら…
こんな曲を聴いてみたくなりました
Tempo
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