香りの向こうにナポレオン
デパートの香水売り場で、いくつもの香りを試していたときのことです。甘いもの、爽やかなもの、どこか異国を思わせるもの。香りに包まれながら歩く時間は、それだけで少し現実から離れたような気分になる。
そのとき、ふと一つのメンズの香水に手が止まった。控えめでありながら、芯のある香りだった。近づいてきた店員が、「それは、かつてナポレオンが使っていたといわれる香水の一つですよ」と教えてくれた。さらに、「彼は自らの士気を高めるために香水を用いていたそうです」と続けた。
その言葉をきっかけに、私はナポレオン・ボナパルトのことが気になり始めた。
コルシカ島に生まれ、若くしてフランス軍の砲兵士官となった彼は、フランス革命という激動の時代の中で頭角を現した。身分よりも能力が重んじられる時代の追い風を受け、卓越した戦術眼と決断力、そして人を惹きつけるカリスマ性によって、驚くべき速さで昇進していく。
エジプト遠征では軍事的成功こそ限定的だったものの、「ロゼッタ・ストーン」の発見に象徴されるように、歴史に残る成果をもたらした。その後、クーデターによって政権を掌握し、ついには自ら王冠を手にして皇帝となる。絵画の中で威厳に満ちた姿を見せる彼は、単なる軍人ではなく、時代そのものを動かした存在だった。
だが、彼の魅力は戦場や政治だけにとどまらない。私が興味を惹かれたのは、むしろ彼の人間的な一面だった。
最初の妻ジョゼフィーヌは、彼より六歳年上の未亡人で、二人の子を持つ女性だった。社交的で自由な気質を持つ彼女に、ナポレオンは深く惹かれていったという。彼は手紙の中で、時に情熱的に、時に冗談めかして自らの想いを伝えた。「私の心に侵入したあなたの影は、もはや追い払うことができない」——そんな言葉を残している。
戦場での厳しさとは対照的な、その繊細な感情表現に、私は少し意外な印象を受けた。
そして再び、最初の香水の話へと戻る。ナポレオンにとって香りは、単なる嗜好品ではなかった。自分自身を鼓舞し、周囲に印象を与え、時には心理的な影響さえ及ぼす、いわば見えない装いだったのだという。彼が愛用したとされるオーデコロンには、ベルガモットやローズマリーの爽やかな香りが含まれていたと伝えられている。
香りで自分を整える——その感覚は、現代に生きる私たちにもどこか通じるものがある。
そういえば先日、偶然立ち寄ったカフェで「カフェロワイヤル」を注文したことがあった。角砂糖に染み込ませたブランデーに火を灯し、青い炎を揺らしながらコーヒーに落とす。その一連の所作は、まるで小さな儀式のようで、見ているだけで気持ちが高揚したのを覚えている。
後で知ったのだが、このカフェロワイヤルもまた、ナポレオンが好んだとされる飲み物だという。目覚めと集中力を高めるための一杯として、彼の日常に寄り添っていたらしい。
香りといい、飲み物といい、遠い時代の人物でありながら、不思議と親しみを感じる瞬間だった。
私自身も、気分を上げたいときに香水を使うことがある。ほんの少し香りをまとうだけで、背筋が伸びるような気がする。そんなささやかな習慣が、遠い歴史の中の人物とどこかでつながっているように思えるのは、少しだけ愉快なことだ。
それ以来、香水売り場を通るたび、あの日の言葉を思い出す。そして、カフェロワイヤルを口にするとき、ふとナポレオンの姿がよぎる。
香りとは、記憶を連れてくるものなのかもしれない。
今日は、私の大好きな曲「ボレロ」
ピンクマティーニの素敵な演奏で…
Bolero-Pink Martini
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