Essays & Music

⭐︎夢二のテーマ

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深草少将の百夜通い

京都に行くと、必ず指名するタクシーの運転手さんがいる。
その方と初めて出会ったのは、主人との結婚三十周年で京都を訪れたときだった。宿まで迎えに来てくださったのがきっかけである。

ご高齢ながら、車を降りてドアを開けてくださるような、どこか品のある紳士だった。
「まるでどこかの社長さんに運転していただいているみたいですね」冗談まじりにそう言うと、運転手さんは少し照れたように、しかし真面目な口調で、「昔は会社の社長をしておりました」
と答えた。

その意外さと、物知りで静かな話ぶりに惹かれて、以来、京都へ行くたびにその方をお願いするようになった。

ある日のこと、山科の随心院へ向かう道すがら、運転手さんは静かな語り口で、平安時代の恋物語を聞かせてくれた。絶世の美女とうたわれた小野小町と、彼女に恋い焦がれた深草少将の話である。

少将は小町に想いを寄せ、求婚する。だが小町はすぐには応じない。
「百夜、欠かさず通い続けることができたなら、その時は想いを受け入れましょう」それが条件だった。

少将は雨の日も風の日も通い続ける。夜ごとに通った証として、芍薬の実を一つずつ置いていったともいう。数を重ねるごとに、想いの深さが形になっていくようである。

そして九十九日目。
あと一夜で願いが叶うというそのとき、激しい風雪に見舞われ、少将は道半ばで力尽きてしまう。

——確か、そのような物語だった。

山科へと向かう道は、いまなら何ということはない距離に思える。けれど、当時の夜道を思えば、決して容易なものではなかっただろう。
それでも通い続けた、その一途さに、胸が締めつけられる。

小町は、彼の覚悟を試したのだとも言われている。それにしても、あと一夜だったのに——。

平安の物語には、すべてが満ちることよりも、届ききらないところに美を見出す感覚がある。未完であるがゆえに、かえって心に残る余情。
この話もまた、そうした美意識の中で語り継がれてきたのだろう。

実際にその道を、少将が歩いたかもしれない。
そんな現実と物語のあわいに立つような感覚があるからこそ、あの運転手さんは、この話を聞かせてくれたのかもしれない。

京都を訪れるたびに、ふとあの夜の語りを思い出す。そして、あと一夜に届かなかった想いに、静かに心を寄せるのである。

今日は、せつない平安時代の恋物語
を思いながら、[夢二のテーマ]を
お送りしましょう。

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