三条家の遺言
かつて、目黒駅からほど近い場所に「三条園」という名のホテルがありました。庭園の美しさで知られ、都会の中にありながら、どこか静謐な空気をまとった場所でした。
駅から歩いて行ける距離にあったこともあり、出張の折に私は何度かそのホテルを利用しました。しかし、最初に訪れた日のことは、今でも不思議な記憶として心に残っています。
チェックインを済ませ、客室へと続く通路を歩いていたときのことでした。どこからともなく、柔らかな横笛の音色が聞こえてきたのです。音はかすかでありながら、確かに耳に届くき、部屋に入ってもなお、その音は消えなかったのです。私は館内に流れているBGMだろうと、さほど気にも留めませんでした。
しかし外出の際、フロントに鍵を預けながら何気なく「横笛の音が素敵ですね」と伝えたところ、意外な返答が返ってきた。「館内では音楽は流しておりませんが……」。その一言が、心のどこかに小さな引っかかりを残したのでした。
その夜、外で食事を済ませて部屋へ戻ると、再びあの音が聞こえました。静かな廊下に、誰にも気づかれないように流れる旋律。なぜ自分にだけ聞こえるのか——そう思った瞬間、音は単なるBGMではなく、何か別の気配のようにも感じられました。
宿泊費は比較的手頃でありながら、落ち着いた趣のあるそのホテルを、私はその後も何度か利用しました。ある日、館内にある薬膳中華の店で食事をとった際、マネージャーの方から、ホテルの由来が記された案内を手渡された。
そこには、この場所がかつて「三条園」と呼ばれていた理由が記されていた。「この地が誰の手に渡ろうとも、三条の名を継ぐこと」——そんな趣旨の言葉があったように記憶している。
この地は、幕末から明治にかけて活躍した公家、三条実美の旧邸跡にあたる。彼は明治維新の中心人物の一人であり、太政大臣として新しい国家の礎を築いた。温厚で調整力に優れた人物だったと伝えられている。
その事実を知ったとき、あの横笛の音がふと別の意味を帯びて思い出された。過去の気配、あるいはこの場所に刻まれた記憶が、かすかに響いていたのではないか——そんな想像が、静かに胸に広がった。
だが時は流れ、今その場所を調べてみると、ホテルの名は「三条園」ではなくなっていた。新しい名前に変わり、かつての呼び名は表から姿を消している。
「三条の名を継ぐこと」。その願いは、もはや途切れてしまったのかもしれない。
それでも、私の中ではあの場所は今も「三条園」のままであり、あの夜に聞いた横笛の音色は、消えることなく静かに響き続けている。
まるで、名を失うことを拒むかのように。
「ガブリエルのオーボエ」は、
イタリアの巨匠エンニオ・
モリコーネが、映画のために
書き下ろした曲です。
静かなこの曲を聴きながら…
五十嵐紅トリオ:ガブリエルのオーボエ (E.モリコーネ)
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