13歳、パリを目指した少年
「ルイ・ヴィトン」という名前を聞けば、誰もが高級バッグを思い浮かべる。
けれど、その人生の始まりは、華やかなパリではなかった。
1821年、ルイ・ヴィトンはフランス東部、ジュラ地方の小さな村に生まれた。木や森に囲まれた環境で育ったルイにとって、木材や職人仕事は身近なものだったという。
10歳のとき、母を亡くす。
その後、父が再婚。継母との関係がうまくいかなかったこともあり、13歳になったルイは、故郷を出る決意をする。
向かった先は、パリ。
まだ13歳の少年が、たった一人、徒歩でパリを目指したのである。
現在の感覚からすれば、あまりにも大胆な決断だ。しかも、パリまでの道のりは短くない。ルイは旅の途中でさまざまな仕事をしながら、二年以上をかけて、16歳でようやくパリにたどり着いた。
1837年。そこで彼が見つけた仕事が、トランクや荷物を扱う職人、ロマン・マレシャルのもとでの見習いだった。
当時の旅行は、今のように快適なものではない。馬車や船、そして鉄道で運ばれる荷物は、揺られ、積み重ねられ、時には乱暴に扱われる。だからこそ、「大切な荷物を、どう守るか」という職人の技術が必要だった。
ルイは、そこで17年間働いた。
17年。
今なら「長い」と感じるかもしれない。
けれど、この17年間こそが、後のルイ・ヴィトンをつくったのだと思う。
ただトランクを作る技術だけではない。
上流階級の人々が、旅に何を求めているのか。どんな荷物を持ち、どんな不便を感じているのか。ルイは、職人として働きながら、旅する人々の暮らしそのものを見つめていたのだろう。
そして1854年、33歳になったルイは、パリに自分の店を開く。
やがて彼は、従来の丸い蓋のトランクではなく、重ねて置くことのできる平らな蓋のトランクを考案する。軽く、丈夫で、使いやすい。
「美しいから売れた」のではない。
まず、「便利で、丈夫だから必要とされた」。
そこに、ルイ・ヴィトンというブランドの原点があった。
そして、もう一つ興味深いのが、現在誰もが知る「モノグラム」だ。
これはルイ本人ではなく、息子のジョルジュ・ヴィトンが1896年に考案したもの。模倣品が増えるなかで、ブランドを象徴する独自のデザインを生み出そうとしたのだという。
そこには、当時のヨーロッパで流行していた「ジャポニスム」、日本美術への関心や、紋章美術などの影響もあったとされる。あの「LV」の文字と花のような幾何学模様が、今では世界中の人に知られる存在になっている。
そして、ルイ・ヴィトンと日本とのつながりを知ると、さらに面白い。
19世紀の顧客名簿には、1878年に購入した外交官・鮫島尚信ら、日本人の名前が残っている。板垣退助も1883年にパリの店を訪れ、トランクを購入した。そのトランクは現在も残されており、現存する日本最古のルイ・ヴィトン製品として知られている。
そして1978年。
ルイ・ヴィトンは東京と大阪に初めて店舗を開き、日本に正式進出する。フランスの小さな村から始まった少年の人生が、150年以上の時を経て、日本の街にも根を下ろしている。
そう思うと、なんとも不思議な気持ちになる。
けれど、私が一番心を惹かれるのは、世界的なブランドになった現在の姿ではない。
13歳で家を出て、一人でパリを目指した少年の姿だ。何が待っているのかも分からない。
成功する保証もない。
それでも、自分の足で歩き続けた。
そしてパリに着いてからも、17年間、職人のもとで技術を磨いた。
人生には、ときに華やかな瞬間がある。
けれど、その華やかさの下には、人には見えない長い時間があるのだと思う。
ルイ・ヴィトンの場合、それは17年間の下積みだった。「丈夫で、便利なものをつくる」。
そんな一つひとつの仕事を積み重ねた先に、世界中の人が知る名前が生まれた。
今は、結果を早く求めたくなる時代だ。
けれど、時間をかけて身につけた技術や経験は、簡単には誰かに真似されない。
13歳の少年が、自分の足でパリを目指したこと。そして、17年間、職人として腕を磨いたこと。
ルイ・ヴィトンの人生を知ると、「成功」という言葉の前には、やはり長い道のりがあるのだと思う。
人生は、近道ばかりではない。
時には、遠回りに見える道こそが、その人だけの財産になるのかもしれない。
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今日は、この曲を……
Csardas – Gypsy Dance
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