秘密の映画
『愛のコリーダ』という映画がある。英題は In the Realm of the Senses。1976年に公開された日本とフランスの合作映画で、監督は大島渚。昭和初期に起きた阿部定事件を題材にした作品として知られている。
公開当時、この映画は大きな話題を呼んだ。「芸術か、ポルノか」という論争が起こり、新聞や雑誌でも盛んに取り上げられていた。過激な性描写があるという噂も広まり、誰もが興味を持ちながら、同時にどこか遠巻きにしているような映画だった。
だから、友人や恋人に気軽に「一緒に観に行こう」と誘えるような作品ではなかった。
それでも私は、どうしてもこの映画を観てみたいと思った。理由はいくつかある。まず、私が以前から関心を持っていた大島渚監督の作品だったこと。そして主演が藤竜也だったこともある。さらに、ヒロインを演じた松田英子という女優の存在も気になっていた。
作品は過激な映画だと聞いていたが、松田英子にはどこか清潔で凛とした雰囲気があった。その女優が、この映画でどのような役を演じているのか、私は自分の目で確かめてみたかったのである。
しかし「この映画が観たい」と口にするのは、なぜか少し憚られた。若かった私は、そんなことを言えば妙に好奇心の強い人間だと思われるのではないか、と気にしていたのかもしれない。結局、誰にも言わず、ひとりで名古屋の映画館へ向かった。
二十歳そこそこの頃のことである。
物語は1930年代の東京を舞台にしている。元芸者の女と旅館の主人が出会い、やがて二人は激しい性愛の関係へとのめり込んでいく。互いに相手だけを求め、社会から切り離されたような世界の中で、愛と欲望は次第に極限へと近づいていく。
この物語のもとになったのが、1936年に実際に起きた阿部定事件である。恋人を殺害し、その身体の一部を持ち歩いた女性の事件は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。
映画もまた、日本映画としては異例の大胆な作品だった。日本では制作が難しいと考えた大島渚は、フランスの製作会社と協力し、資金も現像もフランスで行うという形で映画を完成させたのである。
スクリーンに映し出される映像の中には、若い私には正視できないような場面もあった。それでも私は、不思議な緊張を覚えながら最後まで席を立つことはなかった。
やがて上映が終わり、場内の灯りがふっと点いた。
私は何気なく周囲を見回した。空いている映画館の中央に、私はぽつんと一人で座っていたはずだった。ところが、いつの間にか両隣の席にも、後ろの列にも人が座っている。気がつけば五人ほどの男性が、私の周囲を囲むようにして座っていたのである。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が急にざわめいた。誰も何も言わない。ただ静かな空気の中で、私は急にその場にいることが怖くなった。
私は立ち上がり、誰とも目を合わせないようにして、足早に映画館を出た。
外の空気は思ったより冷たかった。人通りのある通りに出たとき、ようやく少しほっとしたのを覚えている。
若かったあの頃、私は少し背伸びをするような気持ちで、その映画を観に行った。
『愛のコリーダ』を観たことは、その後長いあいだ誰にも話さなかった。
けれど今思えば、あの日の映画館の暗闇と胸のざわめきは、二十歳の私が大人の世界をそっと覗き込んだ、最初の記憶だったのかもしれない。
あの時を思い出しながら…
L’un reste… l’autre part
Official Artist Channel


