Essays & Music

⭐︎Lucio Dalla – Caruso (Live Video)

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甘い誘惑

店を始めて間もない頃のことだ。
一日の仕事を終え、駅までの道を歩いていた。店から駅までは、およそ600メートル。たったそれだけの距離なのに、その夜の道のりは妙に長く、そして鮮やかに記憶に残っている。

当時32歳。濃紺に白い細いピンストライプの襟なしスーツを身にまとい、膝上10センチのスカートからのぞく脚で、ヒールの音を軽やかに響かせながら歩いていた。仕事の充実感と、まだ失っていない若さへの自負が、背筋をすっと伸ばしていた頃だ。

男の人というのは、女が一番、美しい瞬間を嗅ぎ分ける嗅覚を持っているのかもしれない。

背後から高級車がゆっくりと近づき、私の横で止まった。窓が静かに下り、「送っていくよ」と声がする。「駅も近いので、結構です」私はそう答え、歩みを止めなかった。

けれど車は、私の速度に合わせるように、静かについてくる。5m程進んだところで、再び窓が開いた。「乗れよ」今度は、先ほどより低く、命じるような声だった。

「結構です」
同じやり取りを二度、三度と繰り返す。ようやく駅の灯りが見えたとき、胸の奥に小さな安堵が広がった。

「乗れって言ってるだろ!」

強い口調に、さすがに少し怖くなった。そのとき、私は初めて運転席の男性の顔を見た。
驚くほど、好みのタイプだった。落ち着いた雰囲気と、自信をまとった横顔。危うさすら魅力に見えてしまうような人だった。

そして気づく。どうやら私は、命令口調に弱いらしい。もう一度、「乗れよ」と言われたら…
私は、あの車に乗ったのかもしれない。

もし乗っていたら、どうなっていただろう。
ほんの少しの非日常。甘美な時間。あるいは、後悔。

想像は広がるけれど、結局私は乗らなかった。甘い誘惑を受け入れるほどの勇気も、無謀さも、私にはなかったのだ。

あの600mの夜道は、私にとって
理性と衝動の境界線だったのかもしれない。

今日の曲は、情熱的に歌い上げた
Lucio Dalla の Caruso を…

Lucio Dalla – Caruso (Live Video)

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