Essays & Music

⭐︎Something Divine (Acoustic)

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銀座で見かけた紳士

東京に来ると、最近は銀座に宿を取ることが多くなった。何度か滞在するうちに、少しずつこの街の空気にも慣れてきたように思う。通りに並ぶ高級店のショーウインドウを眺めながら歩くだけでも、どこか心が浮き立つ。銀座には、日常とは少し違う時間が流れている。

もちろん、私は地方の素朴な雰囲気も好きだ。けれど、時にふとした場面で都会との違いを感じることがある。例えばホテルのエレベーターで「おはようございます」と声をかけても、返事が返ってこないことがある。東北の人は寡黙なのだろうと自分に言い聞かせながらも、少しだけ寂しい気持ちになることがある。

そんなことを思い出したのは、ある日の銀座での出来事があったからだ。

地下鉄の銀座線を降り、地下通路から松屋の地下入口へ向かっていた。大きなスーツケースを持っていた私は、地下通路から続く数段の階段を前にして少し立ち止まった。スーツケースの持ち手を引き上げ、やっと一段上がったそのときだった。

「私がお持ちしましょう」

後ろから穏やかな声がした。振り向くと、長袖のワイシャツの袖を軽くまくった男性が立っていた。彼は私のスーツケースを軽々と持ち上げると、階段の上まで運んでくれた。

あまりにも自然な動作だったので、私は一瞬言葉を失ってしまった。ようやく「助かりました。ありがとうございます」と伝えると、彼は軽く笑顔を見せ、何事もなかったかのように人の流れの中へと消えていった。

ほんの数秒の出来事だったが、その後ろ姿がなぜか印象に残った。年の頃は四十代か五十代だろうか。背筋がすっと伸びていて、仕事のできそうな雰囲気があった。

「銀座には、こんな紳士がいるのだな」

そんなことを思いながら、私はホテルに荷物を預け、遅めの昼食を取るために近くの蕎麦屋に入った。

店内は昼時を少し過ぎていたが、それでも混み合っていた。ようやく空いた席に腰を下ろし、メニューを眺めながら何を頼もうか迷っていると、隣の席にスーツ姿の男性が座った。ネクタイを少し緩め、どこか余裕のある雰囲気をまとっている。

そのとき、彼の携帯電話が鳴った。

彼はすぐに電話に出ると、落ち着いた声でこう言った。

「いつもお世話になっております。せっかくお電話を頂いたのですが、ただいま出先ですので、こちらから改めて掛け直させていただきます」

それだけを簡潔に伝え、電話を切った。

ほんの短いやり取りだったが、その言葉遣い、声の調子、無駄のない応対の仕方に、思わず感心してしまった。きっと多くの人と仕事をしている人なのだろう。そんなことが自然と伝わってくる話し方だった。

私はメニューに視線を戻したが、先ほどの電話の印象が頭に残っていた。

やがて彼は店員に向かって言った。

「鴨せいろ、お願いします」

迷いのない注文だった。

鴨の脂の旨みと焼きネギの甘みが溶け込んだ温かいつけ汁に、冷たい蕎麦をくぐらせて食べる鴨せいろは、香りも豊かな人気の一品だ。

まだ決めかねていた私は、つい同じものを注文してしまった。

その日、銀座で私は二人の紳士を見かけた。スーツケースをさりげなく持ち上げてくれた人。電話一本にも丁寧さがにじむ人。

どちらも、特別な出来事ではない。けれど、ふとした振る舞いの中に、その人の生き方や品格のようなものが垣間見えることがある。

銀座という街は、高級店や華やかなショーウインドウだけでできているのではないのだろう。そこに行き交う人たちの、さりげない気遣いや振る舞いが、この街の空気を作っているのかもしれない。

銀座の街は、その日、いつもより少しだけ上品に見えた。

素敵な人に出会った銀座を思い出して…

Something Divine (Acoustic)

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