父を守ろうとした夜
あの日の出来事は、今でも私の記憶の奥に鮮明に残っている。思い出そうとしなくても、ふとした拍子に、その時の空気や胸の鼓動までがよみがえってくる。あれは、私が中学二年生の頃のことだった。
その電話を取ったのは、私だった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、どこか荒っぽい声だった。
「○○組だけどよー。親父はおるか?」
普通の人とは違う言い回しに、私は思わず戸惑った。父は不在だと伝えると、相手はぶっきらぼうにこう言った。
「帰ったら、○○組に来るように言っとけ。」
それだけ言うと、電話は一方的に切れた。
胸の奥に、言いようのない不安が広がった。子どもながらに、「ただ事ではない」と感じたのだ。
やがて父が帰宅したので、その電話のことを伝えると、父は特に慌てる様子もなく、「夕方、ちょっと行ってくる」と言って家を出て行った。
しかし、私はどうしても気になって仕方がなかった。あの電話の口調が、どうしても頭から離れなかったのである。
そこで私は、店で働いていた弟子の青年に頼み、車に乗せてもらって父の後を追うことにした。その青年は二十二歳になったばかりで、事情を聞くと心配そうな顔をしながらも、黙って車を出してくれた。
その時の私は、女の子であることなどすっかり忘れていた。ただ、「父は私が守る」という思いだけで頭がいっぱいだった。
そして、今思えば信じられないことだが、私の手には出刃包丁が握られていた。包丁は晒に巻いて隠していたが、もしもの時には使うつもりでいたのである。
私たちは○○組の家の近くまで行き、庭の陰に身を潜めて中の様子をうかがった。もし私が家の中に入るようなことがあれば、その青年にはすぐ警察へ行くようにと伝えてあった。
家の中には何人いるのだろう。
父が呼ばれた理由は何なのだろう。
想像すればするほど、不安は大きくなっていった。
包丁を握る手には、いつの間にか力が入り過ぎていた。まるで包丁と手が一体になったかのように、指が固まってしまっていた。
その時になって、ふと我に返った。
私はまだ中学二年生の子どもだったのだ。
もし本当に何か起きたら、自分など簡単に押さえつけられてしまうに違いない。そうなれば、かえって父の足手まといになるのではないか。そんな考えも頭をよぎった。
それでも、ここを離れることはできなかった。
外は寒かったが、私は頭に汗をかいていた。胸の中で、恐怖と覚悟が入り混じっていたのである。
どれくらい時間が過ぎただろう。
庭の外は静まり返り、家の中からは何の物音もしなかった。
三十分ほど経った頃だっただろうか。
突然、家の中から父の笑い声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、私は大きく息を吐いた。張り詰めていたものが、一気にほどけた気がした。どうやら、何事もなかったらしい。
私は心の底からほっとした。
しかし、あれほど強く握りしめていた包丁は、すぐには手から離れてくれなかった。
私が○○組の庭に潜んでいたことは、その時は誰にも言わなかった。
ずっと後になって、ふとしたきっかけでその話を父にしたことがある。父は目を丸くして驚き、そして苦笑いをしながらこう言った。
「お前が女の子で良かった。」
「こんな気性に生まれていたら、先が思いやられる。」
そう言いながら、父は私の肩を抱いた。
もうずいぶん昔の出来事である。それでも、あの時の冷たい空気や胸の高鳴り、そして父の笑い声は、今でもはっきりと思い出すことができる。
私の中で、決して忘れることのできない、一日の記憶なのである。
今日は、こんな曲に乗せて…
なとり – Overdose(Acoustic)
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